ZENTEMPLE 石室山 松禪寺 〒668-0363 兵庫県豊岡市但東町栗尾469E-mail kenpou@syozen.com
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バンコク(16日)
ブダガヤ(17日)
ブダガヤ、ラジギール(18日)
バイシャリ、クシナガラ(19日)
クシナガラ、ベナレス(20日)
ベナレス、ムーガルサライ(21日)
アグラ(22日)
デリー(23日)
デリー、バンコク(24日)
不思議の国 インド
インドといえばカレー
インドのトイレ
関西空港からバンコクへ
2月16日(月)
午前3時半起床。午前4時25分出発。午後5時頃福知山・D寺さんに集合。関西国際空港に午前7時半到着。搭乗手続きを終えて時間待ち。タイ航空TG623便、午前10時20分発。
初めてのインド、福知山仏跡巡拝友の会の仏跡巡拝の旅に参加させてもらった。総勢18名が参加、我が臨済宗妙心寺派は3名の参加であった。9日間という日程の海外旅行は初めてのこと、緊急の用が発生しないことをひたすら願うばかりだ。
タイのバンコク空港に14時15分に到着。気温は35度で暑い。入国審査がいっぱいで時間がかかる。バスでツイン・タワー・ホテルに向かう。約1時間かかった。バンコク駅の近くで下町。添乗員によれば上野のような感じという。
(ホテルの窓から見るバンコクのまち)
夕食はホテル内のレストランでタイ式水炊きをいただいた。白菜、クーシンサイ、魚の練り物、豚肉などがはいり、醤油と辛い出汁をつけて食べる。かなり日本的な食事だ。最後は雑炊となるが、卵でとじるところも日本的。食事後は、パクナム寺で座禅をする組、タイ式マッサージに行く組などに分かれた。私は疲れたので部屋でゆっくりすることにした。
バンコクは大都会だ。
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2月17日(火)
現地時間午前5時半起床。荷物をまとめてスーツケースは部屋の前に6時15分までに出しておき、朝食へ。バイキングだが格別変わった料理があるわけではない。部屋にもどってしばらく休憩。午前7時、ホテルを出発。
ホテルからバスで船乗り場へ移動。船で約30分移動、午前7時40分に着いてパクナム寺を参拝。船の両岸には民家がつらなる。犬も多い。パクナム寺で宿泊組と合流して寺を拝観する。次第に蒸し暑くなってきた。
(パクナム寺本堂)
現地時間午前9時40分、出国審査、手荷物検査を終えてD5ゲートへ。タイ航空TG-8820、12時10分発、ガヤへ向かう。
(ガヤ空港)
現地時間で午後2時前、ガヤ空港へ到着。いきなり土色の世界へ入った感じ。バスでスジャータ・ホテルに入り、作務着に着替え制服(従軍衣)、略子、数珠を持って釈尊ご成道の地・ブダガヤに午後3時前向かう。
(大菩提寺の本殿、高さ52メートル)
(仏陀が坐した金剛座がある所)
菩提樹の下で瞑想を続けたブッダが悟りを得た、仏教徒にとっては最高の聖地だ。最初に2002年に世界遺産に指定されたマハーボディー寺院(高さ52メートル)に向かう。敷地内のゲート手前から靴を預けて裸足(靴下はOK)で入場。内部には金箔の釈迦如来座像(10世紀末)が安置され、この前で経を読む者、坐禅瞑想するものなどさまざま。我々も三帰依文、般若心経、消災呪、回向、四句誓願文をあげる。本当はここでは5分以上はとどまるなと注意書きがされていた。とにかく人が多い。タイやチベットの僧侶のほか、白い衣の巡礼者や五体投地を続ける人など、聖地はごった返している。法要を終えこの塔を出た裏側に、ブッダが坐した金剛坐が置かれ、そのすぐ傍らに菩提樹が枝を広げている。ここでも坐禅瞑想をする人が多く、我々も約10分間坐禅する。その後、蓮池を見て、塔の周りを一周する。
ブッダは6年もの間、苦行難行をこなし、衰弱してナイランジャラー川に入り沐浴する。その時に、スジャータから乳粥の供養を受け、ここブダガヤの菩提樹の下で禅定にはいったわけだ。12月8日、明けの明星が輝く頃、ついに悟りを開かれた。ここは、ブッダ(悟れる者)誕生の地なのだ。
(スジャータが乳粥供養をしたセーナニ村にある仏塔)
午後6時、続いてバスで少しだけ移動して、教典に尼蓮禅河として登場するナイランジャラー川を渡る。川の水は乾期のためまったく流れていない。対岸にはスジャータが乳粥供養をしたセーナー村がある。ここでも子どもたちが「こんにちは」と話しかけてねだってくる。またバスでホテルに戻り、大浴場で入浴。現地時間午後7時半より夕食。カレーなどおいしくいただいた。
(尼蓮禅河)
ブダガヤは農村地帯。現金収入もなく貧しい地域のようだ。子供から大人まで日本語で話しかけてくるし、いたって明るい子どもたちばかりだ。物乞い、みやげ売りがほとんど。とにかくしつこくついて回る。午後9時頃就寝。
(スジャータホテル)
2月18日(水)
午前4時前に眼が覚める。起床時間は午前6時だが早く眠ったので寝不足ではない。同室の徳さんは私のイビキで眠れなかったかもしれない。午前6時40分、日本寺に参拝する。
(印度山 日本寺)
印度山日本寺は1970年に財団法人国際仏教興隆協会が建立した寺で、最初に寄付されたのが山田無文老師で、当時で600万円を寄付されたそうだ。本堂で読経、坐禅をさせてもらう。
(王舍城南壁)
(竹林精舎)
(ビンビサーラ王の七重の牢獄跡)
(玄奘三蔵も留学したというナーランダ大学跡)
ホテルに戻り朝食。午前8時50分ホテルを出発、ラジギールへ。約100キロもの道のりを王舎城に向かう。途中の橋が壊れているとのことで回り道もあった。午前11時10分、王舎城の南城壁後に到着。午前11時45分、竹林精舎を見学、午後12時15分にはビンビサーラ王の牢獄跡を見学。午後12時35分、インド・ホッケ・ホテルに荷物を入れてここで昼食。昼食後の午後2時、玄奘三蔵も留学したというナーランダ大学跡を見学。広大な仏教大学の遺跡だ。5世紀に建設され、7世紀に三蔵法師が滞在、当時は1万人もの学僧が学んでいたという。12世紀にイスラム教に破壊されるまで、一大センターであったという。
(カジャを売るカジャ村の店)
午後3時20分、ホテルに向かう。途中のカジャ村でカジャをガイドさんが購入。午後4時、再度ホテルに戻りトイレ休憩。午後4時15分にバスでブッダ不況の地、霊鷲山を目指す。出家したブッダが修行に入った地であり、晩年も滞在した地である。午後4時半に到着。ここで、般若心経など読経、坐禅を行った。午後5時20分ぐらいに陽が落ちるということで、日の入りを待つ。風もさわやかで気持ちの良いところだ。バスを降りて徒歩で30分ぐらいでたどりつけるが、往復800ルピーで駕籠をチャーターできる。5人ぐらいがこの駕籠で上った。ここでも土産売りがうるさいほどついてくる。記念写真などを撮って日の入りを拝んだ。
(霊鷲山への道)
(霊鷲山)
(霊鷲山で読経/徳さん撮影)
(霊鷲山から日の入りを拝む)
今回訪れている地域は、インドでも最も貧しい地域だ。バスの車窓から眺める風景は一面茶褐色で、牛や山羊や犬が走り回り、人々は裸足で着ている服も薄汚れている。子どもたちの顔も土埃をかぶったようだが、表情は明るい。思うにベトナムでもそう思ったが生きる意欲は旺盛だ。
午後6時10分、ホテルに戻り大浴場にて開浴。午後7時から夕食。明日はひたすらバスで走る過酷な一日が待っている。
2月19日(木)
午前5時起床、6時40分ホテルを出発。今回の旅程で一番にハードなスケジュールであって、一日中乗り心地の悪いバスに揺られなければならない。ガンジス河を越え、バイシャリを参拝してクシナガラに向かう約380キロの旅だ。
(午前6時20分 日の出を拝む)
バスで出発後、午前6時20分、日の出を拝む。泊まったホテルの近くには温泉があり、人々が沐浴に向かっているようだ。朝早くから人々が動いている。もう少し時間が経てば、銀色の壷のようなものを片手に野原や川の方に向かう人が見える。なかには明らかにしゃがんで大便をしている人もいる。インドでは紙を使わない。水の入った手桶を右手に持ち、左手で洗い流すそうだ。そう思って車窓を眺めていると、用を足している人ばかり眼に入る。
インドは東西3200キロ、南北2900キロの広大な土地に、人口は12億人あるという。11億といわれるが、ガイドは12億人はあるといい、中国に次いで2番目に人口が多い国である。人口の最も多いのがムンバイ(ボンベイ)で1600万人、次いでコルカタ(カルカッタ)が1200万人、首都ニューデリーも同様の人口らしい。インドは29の州で成り立ち、1500語が存在するという。今回の仏跡巡拝で訪れた地域は、お釈迦様の在世時には栄えていたのかもしれないが、今では最も貧しい地域だ。読み書きができない人が多く、それが貧困の原因にもなっているという。きのう訪れた日本寺のなかにも学校があったが、文字を教えることによって経済の一端の知識を得ることもできるわけだ。
宗教はヒンズー教が60%、イスラム教が20%、キリスト教が10%、その他ジャーナ教や仏教、シーク教などが10%を占める。ヒンズー教は、自然を拝む宗教というが、もともとは一神教であるアーリア人が伝えたものであり、ヒンズー教も一神教の変化したものであるらしい。
きょうは、そのような大都市とはほど遠い、インドでも最も貧しい地域をバスで走り抜ける旅だ。午前6時にホテルを出て、クシナガラについたのが午後7時頃であった。お世辞にも乗り心地の良くないバスに、交通法規があるのかわからないような運転ぶりにスリルも満点だ。現地ガイドは、インドで運転できたらどこの国でも運転できると冗談を言うぐらいだ。常にクラクションを鳴らし続けて走り抜ける。日本の暴走族もインドで走れば誰も文句は言わないだろうが、牛には要注意だと、添乗員さんが冗談で言っていたが、まさにクラクションは暴走族と一緒の感じがする。インドらしい乗用車に白いアンバサダーがある。排気量は1200ぐらいらしいが、ディーゼルエンジンだろうか、大きな音がしていた。オースチンに似ているところから、昔スズキがボディだけ輸入して日本で販売したと聞いた。乗り合いバスは屋根にまで人が乗っている。大きなバスの屋根は沿線の枝に当たる可能性があるらしく、マイクロバス程度の屋根には人が満載だ。料金は車内も屋根の上も同じだそうだ。屋根の上の搭乗は、この貧しい州うえに許されていることという。基本的にバス停はないようで、ヒッチハイクのように手を挙げて車をとめるようだ。
(アンバサダー)
途中、トイレ休憩でドライブインらしき店に入った。一応トイレがあったわけで、手を洗う水道のところに男の子がおり、用がすむと手を洗えと水を出してくれ、チップをねだる。ホテルでの枕銭、ポーターなどにも10ルピーを渡していたので、というか手持ちのお金で一番低額は10ルピーなので男の子にも渡した。このように、トイレ掃除や道路のゴミ集めをしている人々は、カースト制度の一番低い人たちらしい。
車窓には貧しい農家が延々続く。電気もない家がほとんどという。途中、何カ所かバザールなどがあり、陽が暮れ始めた頃はいっそうにぎやかになる。家に冷蔵庫などがあるはずもなく、その日の夕食はその日に調達するため賑わうようだ。ガンジス川の両岸には広大なバナナ園が広がっていた。道で売っていたモンキーバナナを現地ガイドさんが買ってきてくれた。まだ青い感じで酸っぱかったが、おいしいバナナだ。
(仏典結中が行われたバイシャリ)
(仏舎利が発掘された仏塔跡)
お昼前の午前10時50分、リッチャビ族の居城であるバイシャリを参拝。アショカ王が建てた柱やストゥーパ、僧院跡などを見学した。バイシャリへはガンジス河を約8キロの橋を渡り、北へ56キロほどのところにある仏跡の一つだ。ブッダ在世時のリッチャビ族の首都であったそうだ。王の独裁ではなく共和制をとっていた。ブッダは何度もこの地を訪れたといい、遊女アンババーリーの接待で有名な地であり、そのためかブッダが入滅した後、8つに分けて各地に祠られた仏舎利のうちの一つがこの地にある。アショカ王の栄華を誇った時代と場面がここにある。
昼食は道沿いにあるドライブインのような「zen」というお店で、バイキングだった。午後1時40分のこと。
午後2時40分、再びバスは走る。途中、葬式の列、結婚式の披露宴だろうか、いろいろな行事を車窓から見た。インドの場合、身内に不幸があると男は全員頭を丸めて白い服を着るという。そういえば、きのう霊鷲山で駕籠担ぎをしていた男性の一人が上下白い服を着て、頭は丸坊主だが頭のてっぺんに少しだけ髪が残っている。剃った髪が伸びてこの残した髪と同じ長さになれば喪が明けるそうだ。
午後6時40分、クシナガラに到着。ロイヤル・レジデンシー・ホテルに宿泊。夕食後、開浴。明日は釈尊涅槃の地を訪れる。頭を剃髪した。洗濯も。
バスに揺られた一日であった。
2月20日(金)
きょうは釈尊涅槃の地・クシナガラを参拝する。朝食7時半、8時15分に出発する。
街道でバスを降りてブッダ入滅の地を記念する大涅槃寺に午前8時18分に入る。すでに大勢の人が参拝していた。靴を脱いで入場。涅槃像の前を陣取り導師三拝、拈香、法語。楞厳呪にて行道、回向、三拝。御詠歌「釈迦如来涅槃御和讃」、舎利礼文、記念写真。その後。大涅槃寺の裏側に、K寺先々住さんの分骨埋葬のため読経。
(涅槃堂)
(涅槃像)
(沙羅双樹)
初めて見る大涅槃像、その周りを行道しながらの読経は感激した。スリランカや多くの参拝で、せまいお堂のなかはごった返している。早朝から巡礼者で満員になるが、その後はそうでもないようだ。涅槃堂の近くには沙羅双樹の木がやはりあった。外でも記念写真を撮り、ホテルに戻って朝食。
午前9時30分、ホテルを出発。ブッダが荼毘に付された場所に建てられたラマバール・ストゥーパに向かう。ここでも般若心経を読経する。続いてブッダが最後の説法前に沐浴したというラニヤバティ川へ赴く。大涅槃寺の涅槃像は、この川から発見されたという。なぜ川に埋まっていたのだろうか。川に埋めて難を逃れたという話もあるという。続いて最後の説法地を訪れて、午後11時過ぎ、バスでベナレスに向かう。
(ブッダが荼毘に付された場所に建てられたストゥーパ)
(涅槃像が発見されたヒランヤパティー河)
(三帰依文を唄いながらチップを求める母子)
(ブッダ最後の説法地)
約6時間の長旅だ。途中、昼食休憩、トイレ休憩を2回入れて午後7時半頃、べナレスに入る。これまで貧しい地域ばかりを見てきたので、ここは大都会に見える。ホテルへ入る前にシルクの店に行く。ここで木綿の作務衣をオーダーした。明日の朝には仕上がっているという。4000円也。ここは、カーシーシルクの名産地である。カーシーとは、べナレスの旧名だそうな。
買い物を終えて午後8時20分にホテルに入る。午後9時夕食。午後10時、部屋に戻って開浴。きょうもバスの長旅に疲れた一日であった。べナレスのホテルは「ラディソン・ホテル」で、これまでのホテルより立派な五つ星ホテルだ。
明日はガンジス河に向かう。午前5時起床だ。洗濯してシャワーを浴びよう。
2月21日(土)
午前5時起床。5時45分、ガンジス河に向けてバスで出発。河の近くまで来たらバスを降りて徒歩で岸まで行く。まだ暗いがすでに土産売りのお兄さんたちに囲まれる。船でガンジス河を遊覧する。船を乗るところは階段状になっている岸辺だが、ガートというそうだ。60ものガートが並ぶという。河の幅はガイドによれば5キロもあるというが、本当だろうか。
(ガンジス河の日の出)
ガイドブックによればべナレスは、英語名のべナリースの日本語読みだそうで、正式名はヴァーラーナスィ、簡単に表記してバナーラスというそうだ。まあ、日本ではべナレスが有名だから、その名でいこう。同じようにガンジス河もガンガーと呼ぶそうな。
ベナレスは3000年以上の歴史を持つヒンズー教最大の聖地、シヴァ神の聖都ということだ。
船に乗る前にバラモンかどうかわからないが、頭に清めと祝福の印を勝手(強引)にしてくれて「マネー」というが持ち合わせていなかったのでお布施はしなかった。
(ガンジス河の灯籠流し/徳さん撮影)
すでにガンジス河では沐浴する人、ヨガをしている人、洗濯している洗濯屋さんなど大勢でにぎわっている。火葬している場所もあった。マニカルニカー・ガートは火葬のガートで、24時間火葬の煙が絶えないという。カメラを向けないでと言われたので、遠くから撮影する。火葬した灰はもちろんのこと、妊婦や子供は火葬せずにそのまま流すという。ゴミも浮いており見た目にはきれいな水とはいえないが、ヒマラヤから流れ来る水はハーブを含み、汲んでおいてもいつまでも腐らないという。太鼓などを鳴らして行列を組んでにぎやかにガンジス河に向かうヒンズー教徒も多いが、年間100万人もの巡礼者が訪れるという。火葬されその灰をガンジス河に流せば輪廻解脱を得るという。朝日が昇ってきた。ガンジス河が一気に明るくなっていく。陽が昇れば沐浴する人がぐんと増える。そりゃそうだろ、こっちは完全防寒対策で船に乗っているのだから。船にのってからガンジス河の灯篭流しも経験した。
帰りはバスが待っているところまでリクシャーに乗った。二人乗りで自転車で引っ張る人力車だ。にぎやかな街のなかを快走してあっと言う間にバスのところへ着いた。
午前8時10分にホテルに戻り、朝食。午前は自由行動で買い物や散策に出る人などがあった。私は観光組に入り、観光タクシーのようなワゴン車でべナレスの大学の博物館、大理石で作ったインド全図がある寺院を見て回った。
ホテルに戻り昼食後の午後2時に出発、釈尊初転法輪の地・サールナートに午後2時半に参拝、迎仏の塔、ダメーク塔、ムーランガンダクティ寺院、アショカ王柱などを見てまわった。スリランカ寺院は1936年に日本画家が仏伝図を描いた寺だ。ここで、僧侶に法糸を腕に巻いてもらった。
(初転法輪の地・サールナート)
サールナートの大学跡の広大さには驚いた。何万という人々がここで学び、仏教の興隆に貢献したということだ。かの玄じょう三蔵法師も学んだ地がここだ。
(ムーガルサライ駅/徳さん撮影)
早めの夕食をホテルで終え、午後7時半出発。バスでムーガルサライ駅を目指す。午後9時過ぎに駅に到着。我々が乗る寝台車は10時20分発だったが、約4時間遅れで乗ることができた。インドの列車は時刻通り走らないとは聞いていたが、ここまで遅れるとは思ってもいなかった。寝台は2段で上に寝たが、きっちり鼻風邪をひいたようだ。のどが痛む。結局アグラについた時点では5時間遅れだった。やれやれ、列車の旅もつらいものだつらいものだ。
2月22日(日)
インドでの列車の旅は、約3時間遅れの午前1時25分に始まった。マガダ急行に冷房付二等寝台車と冷房付一等寝台車に分かれての乗車。私は二段に分かれた寝台車の上側に寝た。このとき、毛布を使えばよかったが、クリーニングされていない毛布にくるまる勇気がなく、結果は喉を痛めることになった。唯一の失敗である。
夜が明けて、下側に寝ておられた玄さんが変わってくださった。上側は窓がないのだ。早朝のインドを車窓から眺める。沿線では壷をもって歩く人、しゃがんでいる人、そうトイレなのだ。気になればそんな人ばかり目に入ってしまうのだ。
簡単な朝食が運ばれてきた。薄いトースト2枚に卵焼きのようなものを挟んで食べる。おなかも空いていたから、まあうまかった。さかんにチャイを売りにくる。玄さんがおごってくれた。紙コップにチャイが注がれる。すっかり紅茶好きになってしまったようだ。
(ツンドラ駅)
結局、目的のツンドラに着いたのは約5時間遅れの午前11時25分。ポーターがスーツケースを列車から降ろしてバスに積み込んでくれる。バスでアグラをめざしたのが午前11時40分。午後12時40分、アグラのジェイピーパレスホテルに到着、立派なホテルだ。
昼食後、午後3時にホテルを出発してタージマハルに向かった。午後3時半に到着して入場するが、テロの警戒から厳重なチェックを受けた。ウエストバッグをつけていたが中を開けられ、なぜかのど飴を取られてしまった。日曜日だからか、大勢の人で賑わっているなか、タージマハルに向かう。建物の中には靴を脱ぐか、ビニールの袋をもらって靴の上から履いて入る。長蛇の列に並んで入るのは疲れた。
(タージマハル)
タージマハルは、ムガール皇帝シャー・ジャハーンの愛の記念碑、つまりシャー・ジャハーンの妃の墓なのだ。世界各地から膨大な量の宝石が取り寄せられ、22年の歳月と膨大な経費を費やして1653年に完成したという。白大理石にちりばめられた貴石の数々、見事としか言いようがない。1983年に世界遺産に登録されている。
(アグラ城)
午後5時5分にタージマハルを出てアグラ城に向かう。午後5時25分、アグラ城に着く。ムガール帝国の権力の象徴で、1565年に築かれたと聞く。赤砂岩で築かれた城壁は、夕日に照らさればいっそう美しいだろう。今は、猿がこの城の住人かのように、あちらこちらで遊ぶ姿が見られた。シャー・ジャハーンが幽閉された囚われの塔などを見学。遠くにはタージマハルが見える。とにかく広大な城跡だ。歩き疲れた。
午後6時、アグラ城を出て、バスは大理石の工房兼お店に着いた。しばし皆さんは買い物タイム。さらに工房を出て、街を歩いた。履き物や洋服、布を扱う店が多い。ブラブラと歩いてみる。すっかり日は暮れているが、街のなかを牛も歩いている。
午後8時15分、ホテルに戻って夕食をいただいた。
2月23日(月)
午前7時半、バスでデリーを目指す。2時間走ったところでトイレ休憩。ミッドウェイという名前だそうで、ドライブインのような所。待ち受けていた象とおじさん。象に乗って敷地内を一周するものだ。数人が乗られていた。
午後12時30分、デリーのアショカホテルに着いた。ここでも入り口でチェックを受けた。インド料理のバイキングで昼食。
午後2時、市内の見学にバスで出た。政庁街と呼ばれる大統領官邸や各省庁ビル、国会などをバスから眺める。
(インド門)
午後2時20分、インド門に着く。高さ42メートルの門で、第1次世界大戦で戦死したインド兵士の慰霊碑と聞く。壁面には戦没者の名前が刻まれていた。
(クトゥブミナール)
続いて世界遺産のクトゥブミナールに午後3時半到着。高さ72・5メートルの塔が目を引く。5層のうち下3層が赤砂岩、その上は大理石という。イスラム教の奴隷王朝がヒンズー教徒に対する勝利を記念して建てたもの。破壊したヒンズー寺院の石材を用いて建てたモスクなどもあった。また、中庭には高さ7メートルの鉄柱がある。4世紀に建てられたものらしいが、純度100%に近い鉄で、いまだに錆びないという。今の技術では作成不可能と聞く。どんな文明があったのだろうか。
(純度100%に近い鉄柱)
午後5時、道路の高架下に広がる百貨店に案内された。中はとても広い店で、しばし買い物タイムだが、刺繍を施したクッションカバーを買った程度。
続いて午後6時、紅茶のお店で試飲と休憩。このお店の紅茶とガラムマサダ、カレーパウダーは、あらかじめ注文書がまわっていたので注文済みであった。でも、皆さんそれはそれで紅茶などを買っておられた。
(紅茶などを売っていたお店)
(インド最後の食事場所)
午後8時、インドで中華料理の夕食だ。これがインドでの最後の食事となるわけで、そう思うと寂しいような、しかし長旅で帰りたいという気持ちもあったりする。
午後8時50分、いよいよバスはデリー空港に向かった。
2月24日(火)
午前0時25分、タイ航空TG316でバンコクをめざす。窓側の席ではあるが夜中だし、すぐに眠りについた。ウトウトしていると機内食が出た。なにも思わず食べたが、隣の方々はパスされていた。すぐに食べ終わりまた眠る。
午前5時25分にバンコク着。次の便までは約3時間あるとのことで、皆さんはマッサージや買い物にまっしぐら。私も免税店をブラブラ歩いていたが、ノートパソコン用の小さなバッグが目に留まり購入。日本円で2200円ぐらいだった。
午前9時5分、タイ航空TG620でマニラへ。少し早い昼食を食べる。マニラには午後12時10分。いったん機外に出なければならず、搭乗口前で待機。午後1時25分、関西空港をめざして飛び立った。機内で夕食。
午後6時35分、関西空港に帰り着いた。
初めての9日間もの海外旅行で、しかも行き先はインド。行く前から不安もかなりあったが無事に終わった。お腹をこわすこともなかったが、疲れもあり喉を痛めたのが残念だった。次回(?)は絶対に気をつけたい。また、心配していた葬儀が発生したが、通夜をY院さんに依頼して葬儀は25日に営めることができた。
お釈迦様の足跡をたどる旅、まさしくルーツをたどる旅でもあった。埃が舞い、ゴミが散乱し、貧困の実体を目の当たりにし、観光地では執拗についてまわる土産売りにうんざりしながらも、でも、あの景色をまた見てみたいという気持ちが交錯する。裸足で走り回る子どもたちには、何か懐かしささえ感じられるだからだろうか。インド、不思議な国である。
(子どもたちは人懐こくて明るい)
インドの「カースト制度」といえば、誰もが身分制度と認識しています。しかし、その内容については実の所、知らないことばかりなのです。旅行では添乗員さんが、その内容を話してくれましたが、揺れの激しいバスのなかでの説明であり、十分に頭のなかに入れることはできませんでした。
カースト制度の起こりは、紀元前1500年頃から北インドに侵入した白色人種系のアーリヤ人が、肌色の濃い先住民族を平定し、その支配を固めるために作り上げたものと聞きました。つまり、肌の白いアーリヤ人を上位に置いたわけですね。そのアーリヤ人のなかにも四つの区分があり、例えばバラモンは宗教儀礼を専門とした上位の区分にあたるようです。私たちの旅では現地のガイドさんが、このバラモンでした。菜食主義、お酒も飲まないのですが、なぜか太っていました。現地ガイドは我々外国からの旅行者を案内したり、現地のホテルや店と交渉したりするわけですから、バラモンでないと相手が言うことを効いてくれないのだとも聞きました。
このアーリヤ人の四つの階級の下位が、ヴァイシャ(平民)とシュードラ(奴隷)なのですが、さらに職業ごとに細分化され、2000以上の区分ができたといいます。そして、その区分は世襲制といいます。
また、このカースト制度にも入らない区分もあったそうで、かのガンジーは「ハリジャン」(神の子)と呼んで、ヒンズー社会での地位向上に努めたそうです。
インドを旅行してまず目に付くのは道路のゴミです。半端な量ではなく、大量のゴミが捨てられています。家の前を掃除する女性も見ましたが、おそらく彼女はそのゴミを道路に掃き出すのでしょう。その道路のゴミは、それを掃除する階級の人の仕事と聞きました。間違っていたら申し訳ありません。
あるいはドライブインのトイレに行ったところ、手を洗う所に少年が立っており、用を済ませた我々が手を洗おうとすると水を出してくれて、チップを求めました。たまたま持ってポケットに入っていた10ルピーを渡しましたが、礼を言うまでもなく普通に取ります。ホテルではティッシュボックス片手に、手を洗った我々にティッシュを取れと差し出す青年がいました。格別要求もしませんが、差し出せば受け取りました。このように、トイレに関する仕事、掃除に関する仕事は、最下層の“神の子”と呼ばれる階層の人たちの仕事だそうです。
お店などでサービスでチャイ(ミルク、砂糖、あるいはショウガ入りの紅茶)をいただきましたが、そのカップは素焼きのぐい飲みのような器でした。添乗員さんが、これは使い捨てのカップだと説明してくれました。なぜ使い捨てか、下位の人が口をつけたカップを上位の人にあたらないようにするためなのです。だから1回使えば後は割ってしまうようです。もちろん素焼きのままですから、長く使えるはずもありません。このカップも、町のなかで、道ばたでよく売られていました。
人々を肌の色や職業で区別するカースト制度は、今もインドに残っています。ただ、差別という反面、職業での区別によって最低限の生活を保障した一面もあったようです。ガイドブックには、「そう、僕らはインドのカースト制度についてどうこう言える立場にないのだ。日本にだって、やはり差別はあるのだから。」と書いてありました。
インドは不思議な国です。どんな田舎に行っても多くの人に出会います。執拗に数珠などを売ろうとついてまわる人、物乞い、物珍しさで集まってくる人、どこに行くのかひたすら歩く人と牛と犬、野菜を売る人、とにかく人が多い国です。そして、貧困の問題もあります。人があふれ、貧困のなかでも生き抜くパワーもある、とにかく不思議な国なのです。
インドの食事といえばカレーと誰もが思いますが、私たちが日本で食べているカレーライスとは違いました。また、とても辛くてお腹をこわすようなイメージもあったのですが、もちろん辛いのもありましたが辛くないカレーもあり、また、下痢をするのは食べ過ぎという場合もあると、添乗員さんに教えられました。
今回の旅ではホテルでの食事が多く、また、ほとんどがバイキング形式でしたから、いろいろな味を少しずつ試すこともできました。
(ダルカレー)
(鶏の唐揚げ、野菜カレー)
(ナン)
(乳粥)
一般にインドでは食事は手で食べると聞きました。インドの米は日本の米と違ってパサパサした米です。これをカレーで練るといった感じでしょうか、手でこねていると米の粘りがでて手で食べやすくなるようです。添乗員さんが見本を見せてくれましたが、私たちはナイフとフォーク、あるいは箸で食べました。
日本のカレーは、肉のほかいろいろな野菜を入れますが、インドのカレーは一種類の材料だけで作られているようです。例えば、肉類でいえばチキンカレー(Chicken Curry)、マトンカレー(Mutton Curry)などです。ぶつ切りの肉ですから骨もあります。当然のことですが、牛肉はありません。野菜では、ダルあるいはダール(Dhal)でしょうか、豆です。このカレーはどこでもありましたが、チキンカレーほど辛くはありませんでした。
カレーに付き物といえば、ナン(Naan)です。白い小麦粉を焼いたパンで、発酵させているので膨らみがあります。焼きたてのナンは本当においしかったですが、店によってナンも味が変わりました。また、焼きたてのナンにバターを付けると、とてもおいしかったです。
カレーやそのほかの料理でも、その味付けといか香りには、ガラムマサラが使われていると思いました。いくつかおみやげに買ってきましたが、日本のカレーライスに一振りすれば立派なインドのカレーになる、と思うのですが。
そうそう、挽き肉のキーマカレーもありました。ジャガイモを使った料理もおいしかったです。
飲み物では、何といってもチャイ(Chai)です。ミルク、砂糖、時にはショウガ入りもありましたが、これらが入った紅茶です。夜行列車でも飲みましたが、1杯5ルピーだったか?、よく覚えていません。街角でもいろいろな所でチャイは売られていました。
まあ、何を食べてきたか、その名前はよくわかりません。比較的に何でもおいしくいただけました。もちろん、場所はホテルのレストランなどですが。
9日間の旅を終えて関西国際空港に戻ってきたとき、添乗員さんが「二日間ぐらいは刺身を食べないほうがいいですよ」と言われました。下痢をするかもしれないというのです。現に食べて下痢をした人もあったようです。そして、ヤクルト2本で下痢が治った人もありましたが…。
インドで最初に不安に思ったことはトイレでした。トイレがない、青空トイレ、ホテルのトイレも水が流れないこともある、などといろんな不安材料が事前に聞こえてくるものですから、そりゃあ心配になります。
インドの面積は日本の約9倍ありますから、考え方も日本人の9倍はゆったりしていると思えば、地球がトイレという考え方も変に納得してしまいます。
事前に旅行会社からもらったパンフレットによれば、世界中でトイレで紙を利用するのは3分の1だそうです。インドではトイレットペーパーを使わず、水を使います。日本でもウォシュレットが普及しはじめたのは最近のことだと思いますが、インドでは昔から水で処理しているのです。トイレがなく“地球が
トイレ”のインドですが、実のところ水で処理するという点ではの日本より先進国であるといえます。考えようによりますが、もしインド人が紙を使って処理していたならば、国中が処理後の紙で散乱していることでしょう。水で処理しているので、遠目には何の変化もなく目立たないのです。大地の色とウンコが同化していることもあるでしょう。
駅ではウンコだけでなく、ホームから線路めがけて“立ちション”ならぬ“座りション”も見ました。パンツをはいていたら難しいのにと思っていましたら、褌(ふんどし)だそうです。なるほど、横からだせるわけです。
大便に関しては、インドのやり方は、用を済ませると水の入った壷を右手に持ち、後ろから器用に左手で水をかけて洗い流すようです。早朝の車窓からその模様をたまたま確認しました。列車では車窓からよく見えるのです。早朝、三々五々、水の入った容器を片手に池、川や野に向かって歩く人が目立ちます。列車から見える光景は、みんな列車側に向いてしゃがんでいました。
日本の9倍もある広大な土地ですから、自然をトイレにすることが可能なのかもしれません。当然、川や池、線路のそばを歩くときは要注意なのです。そうそう、列車のトイレも100%垂れ流しです。トイレの穴から地面が見えましたから、間違いありません。
ブダガヤのホテルのトイレには、たぶんそのための容器だろうなあと思われる小さなバケツがありました。水洗トイレの水が出なかったホテルも一カ所ありました。
(ブダガヤのホテルにあった手桶)
まあ今回の旅でホテルにトイレが無いというところはありませんでした。バスで移動中の時も、男性の小便はどこでもやってくださいと言われましたが、女性客もあるため途中のレストランやガソリンスタンドなどに立ち寄ってトイレを確認してくれました。まあ、女性はロングスカートをはいておれば、堂々と大地にしゃがみ込んで用を足すことは可能でしょう。
(ベナレスの街をあるく牛)
もちろん大地にあるのは人間のものに限らず、牛や犬などのウンコも落ちています。日本のように公衆トイレが整備されているわけではありませんが、駅やお店にはそれがどんなものかということを別にすれば、トイレはあります。もし下痢になったら、待ったなしということもありますよね。