禅 自らを調え、生活を調えましょう
心からの感謝とたすけあい
 
     
 

 

 ある通夜の席で、「お孫さんにも亡くなったおじいさんの顔を見せてあげてくださいね」とお話したことがあります。痛みと戦いながらの入院生活で、お孫さんの顔を見ると実に穏やかな笑顔をなさったという話しを聞いていたからですが、お孫さんにとっても優しいおじいちゃんの最後の顔をしっかりとまぶたに残してほしいと思いました。

 白隠禅師は「衆生本来仏なり」と、人間は生れながらにして仏性を持っていると説かれました。それは生きている時だけのものではないでしょう。いっさいの苦痛から解き放たれたその顔こそ、正真正銘の仏様ではないでしょうか。「おじいちゃんは仏さまになったんだね」と、お孫さんに見せてあげてほしいと願ったわけです。元気な姿のおじいちゃん、病と戦いつづけるおじいちゃん、冷たくなってしまったおじいちゃん、すべておじいちゃんの姿に変わりはないのです。

 話は変わりますが、毎年一回人間ドッグを受けるのですが、その結果が手元に届いた時はまるで学校の成績表を見るかのごとく気になるものです。たいてい要検査とか要治療などという結果に、少々がっかりしたりします。病気にはなりたくない、たとえ老後になっても病気はいやだ、そう思ってもからだのどこかに支障は出るものです。この病気も、人間として避けて通れない、いえ人間としての姿にほかありません。そして、「老いていく」ことも、そして「死」もです。人が死ぬことは縁起が悪いといいますが、確かに親しい人を亡くすことほど悲しいことはありませんが、生まれてきたからには仕方のないことでもあります。

 自分の死期を予感したお釈迦さまは、弟子のアーナンダの問いかけにこう答えています。

 「一方では老い、死んで行く。もう一方では、新しい命が生まれていく。個々は入れ替わっても、命というものは永遠に存在する。亡びぬためには、死も必要なのかもしれぬ。サナギから蝶になるように、人間でいられるのはほんのわずかな時間なのだ。」

 「生はこれ死の始めなり」という諺のとおり、病や老いや死を不吉なものとして隠ぺいしてはならないということでしょう。生き生きと若々しく動き回る姿も、老いて病を得、やがて死んで行く姿も人間の本当の姿であるということです。だからこそ、家族の一員が亡くなった時は、子どもたちにもその本当の姿を親として見せるべきだと思うのです。

 私が6歳の時、養女に出た姉が病で亡くなりました。母に連れられその枕もとに座ると、だれかが「お姉さんに最後のお水をあげてね」と言いました。筆だったか綿を丸めたものだったか覚えていませんが、水を沁みこませたそれを撫でるように姉の唇にあてたことを覚えています。それが「末期の水」ということを後になって知りました。兄と喧嘩をすると怒って仲裁に入っていた姉が、眠るかのごとく静かに横たわっているのですが、死というものが正直わかりませんでした。何故、姉は冷たくなってしまったのか、不思議でなりませんでした。さらに、傍らでは今まで見たこともなかった父の涙、いえ泣き顔です。父だけではなく、周りの者すべてが泣いているのです。最愛の人を亡くすことの苦しさ、悲しさをこの時に知ったわけです。葬儀の日、出棺前に兄と2人で家の前に咲いていたレンゲを摘んできて姉の傍らに入れました。この時、初めて「さようなら」と感じました。

 家族の一員を見送る時、皆さんは「お世話になりました。ありがとうございました。」と言葉にするか、あるいは心の中で言っていませんか。私は、葬儀の際はかならず心に念じています。「ありがとう」をです。寝たきりで介護を受けていた父は、晩年にはよく「ありがとう」と言いました。その時の顔が照れているようにもみえるし、いかにも幸せそうな良い顔をしていました。最後の別れに際して、お互いが「お世話になりました」、「ありがとうございました」と言えたら、それこそが「命のリレー」でバトンタッチした瞬間ではないでしょうか。

 「納棺夫日記」の著者である青木新門さんは、『いま、日本人の多くが「生・老・病・死」の中の、生まれてから死ぬまでの「生」だけが善で、「老」や「病」や「死」は悪と思っているところがあります。青春は美しく、老は醜悪で、死は忌み嫌うものという観念が脳に張り付いているからです。』(月刊「MOKU」より)と言われています。さらに、神戸の「少年A」の事件から、「悲しみや苦しみに出会っていない。それは、親がこの子に、そうしたものを見せまい、与えまいとしてきたからで、そのツケが現れた事件だったと思うんです。」とも言われ、今の家庭における暮らしの変化に警鐘を鳴らしておられます。とりかえしもつかない、後戻りもできない大切な人の命、その命はどこからきたのか、やがては自分も自由に身動きできにくい老後を迎えることを、そのことを言葉だけではなく、家族の一員を見送るという人生最後の儀式に際しても教えるべきだということでしょう。

 私たちの本山・妙心寺を開かれた花園法皇さまは、「報恩謝徳」(ほうおんしゃとく)の実践を説かれています。つまり恩を報いて感謝しなさいということです。花園法皇さまは、大徳寺を開かれた大燈国師さま、妙心寺を開くために迎えられた無相大師さまのもとで自己を究める修行をなされ真の安心を得られました。その恩に何としても報いたいという願いを「ご宸翰」(しんかん)に残されたわけです。つまり、それが「おかげさま」の心です。

報恩とは恩返し、永六輔さんは次のように説いておられます。

生きているということは

  誰かに借りをつくること

生きていくということは

その借りを返してゆくこと

  誰かに借りたら誰かに返そう

  誰かにそうして貰ったように

  誰かにそうしてあげよう

 

  生きていくということは

  誰かと手をつなぐこと 

  つないだ手のぬくもりを

  忘れないでいること

  めぐり逢い愛しあいやがて別れの日

  その時に悔やまないように

  今日を明日を生きよう

人は一人では生きてゆけない

誰も一人では歩いてゆけない

世は無常なりともいいますが、移ろい、変わり、死んで行くことだけを無常というのならば、何を楽しみに私たちは暮らしていけばよいのかと思われるかもしれません。しかし、今ある自分には計り知れない恩があること、自分には数え切れない縁があって今の暮らしがあることに気づいたならば、生も死も同じことだということに気づくはずです。死ぬことを「往生」すると言いますが、「往生」は「生まれ往く」ことで、死ぬことも生まれ往くことなのです。そのめざすところが、「到彼岸(かなたの岸にいたること)」です。

詩人の藤本幸邦さんは、その実践を次のように教えられています。

  はきものをそろえると 心もそろう

  心がそろうと はきものもそろう

  ぬぐときに そろえておくと

  はくときに 心がみだれない

  だれかが みだしておいたら

  だまってそろえておいてあげよう

  そうすればきっと せかいじゅうの

  ひとの 心もそろうでしょう

 

 仏教用語で人々と仲良くする方法に、四摂法(ししょうぼう)の教えがあります。四摂法とは、人々を救済するための四つの方便(布施、愛語、利行、同事)のことです。本山発行資料からその内容をご紹介します。

「布施」‥精神的物質的な恵みを施し与えることで、物質的は施しを財施といい、教えを説き示すことを法施といい、人々の怖れを取りのぞくことを無畏施(むいせ)という。

「愛語」‥親切な慈愛のこもった言葉、それは相手のためになる言葉であり、相手を喜ばせる言葉である。そうした言葉を使い、それによって人格を形成する、それ故に粗暴な言葉や人を迷わす言葉を使わず、時にかなった言葉を使い、人々を正しい道に導くことをいう。

「利行」‥他人に対して正しい行いを勧めると共に、自分の行為行動が相手の利益につながる事をいう。それ故に自分本位の考えを捨てて、常に相手の立場にたって行動することをいう。

「同事」‥相手と同じ気持ちになって物事を考え、常に苦楽禍福を分かち合い、社会の平和と繁栄と幸福が訪れるように念じた生活をすることをいう。

 以上が、四摂法の意味です。

 先ほどの藤本幸邦さんの詩には、はきものをそろえるという正しい行いがあり、だれかが乱していたらそっとそろえてあげようという「利行」の実践があります。自我を捨て、常に相手の立場にたって「はきものをそろえる」という行為こそ、私たちの生活になくてはならない心であります。

 平成16年の花園会の活動目標は、『禅 自らを整え、生活を整えましょう』〜みんなで幸せになれるよう 心のこもった助け合いをしましょう〜です。助け合いとは、上から下への関係ではなく、「はきものをそろえる」という普段の心がけを示すものです。特別な人の特別な行為ではありません。お互いの「尊い生命」に目ざめることなのです。

※平成16年2月25日発行「松禅寺報」より

 
 
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