愛する人の
心のなかに生きつづける
 
     
  人の死というものは大変悲しいものです。ましてや、家族の一員を亡くすということほど悲しいものはありません。お釈迦様も「この世は苦なり」と仰せになり、八つの苦しみ(四苦八苦)をお示しになりましたが、その一つに「愛別離苦」(あいべつりく)という苦しみがあるといわれています。愛する人との別れは、辛く、悲しいものです。まして死に別れ、二度と会うことのできない永遠の別れなのですから、辛い、悲しいをとおりこした胸をかきむしるほどの苦しみを覚えます。
 悲しみは悲しみとして、苦しみは苦しみとして素直に受けとめるしかありません。悲しさのあまり、大声で泣き叫ぶこともいいでしょう。その涙が、計り知れない苦しみ悲しみを和らげてくれることと思います。
 通夜の席で私どもが読経する「遺教経」という、お釈迦様の最後の教えがあります。お釈迦様の涅槃を嘆き悲しむ人々に、こう仰せになったと伝えられています。
 「いたずらに悲しんではなりません。今ここに滅びるものは、単なる肉体でしかありません。真の仏はさとりの智慧です。滅びゆく肉体は、私の仮の姿でしかありません。さとりに目覚める人は、つねに私とともにあり、私と会うことができます…。」
 仮の姿に囚われるところに苦しみがあるのだよ、とお釈迦様は説かれているのです。仏教では私たちの肉体は四大仮和合といい、その四大とは「地」(骨格)、「水」(体液や血液など)、「火」(体温)、「風」(気体、呼吸)で、この四大が仮に合わさっているので、亡くなれば四大が分離して元の「地・水・火・風」に帰っていくというものです。
 では、人が死ぬと何もかも無くなってしまうのでしょうか。あるいは、人が死んだらどこへ行くのでしょうか。霊魂としてこの世に残る?、冥土の旅に出る?、地獄か極楽のどちらかに行く?、私にもわかりません。師である父をなくした身でもあり、何かやりきれない気持ちになるのも確かです。
 そんな時、次のような詩に出会いました。

 墓に立って泣いてくれるな
 私はそこにはいないのだよ
 私は眠っていないのだよ

 今お前の頬を撫でている風なのだ
 雪に輝くダイヤモンドの粒
 実る稲穂に照り輝く陽の光
 優しく降り注ぐ秋の雨

 お前があさ静けさに目覚めるとき
 羽撃きして翔び立ち
 明けの空に輪をえがいて翔ぶ鳥なのだ
 そして夜空に静かに煌く星

 墓に立って泣いてくれるな
 私はそこにはいないのだよ
 私は眠っていないのだよ
 (フィリップ・カプロー著『輪廻生死』所収)

 日本人ではない人が作った詩なのですが、納得できる何かを感じられませんでしょうか。お盆に行う施餓鬼会では、「佛身は法界に充満して普く一切の群生の前に現ず…」という回向をあげます。仏となった身は、この世界に満ち満ちて、あらゆる人々の前にその姿を現すというものです。墓のなかにいる、位牌のなかにいるといった「有る」という存在ではなく、時には風であったり、雪であったり、日の光であったり、雨であったり、そして、肉体は滅びようとも今を生きる故人を愛した人々の胸のなかに、しっかりと生きつづけているということなのです。そして、私たちの体は、亡くなっていった両親など先祖から受け継いだ尊い命であることも忘れてはなりません。
 死んだらどこへ行くか……今を生きる私たち自身の問題として考えてほしいと思います。

 
 
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