愚中周及(仏徳大通禅師)(1323〜1409)
美濃の人。13歳の時、天龍寺の夢窓疎石の門に入り、のち春屋妙葩に参じた。1341年、愚中19歳の秋、天龍寺船に便乗して元に留学、最初は明州曹源寺の月江正印に参ずる。次いで江蘇省鎮江府の金山寺に到り、松源下5世の即休契了(しっきゅうけいりょう/佛通禅師)に参学、観応元年(1350)、即休の法を嗣いで帰朝。帰国後いったんは京都五山のなかで活躍をしたが、即休に嗣法したことで難を受けたため五山を去り山林修行に専念、生涯二度と洛中に足を踏み入れることはなかった。のち丹後天寧寺に開山として入山。1397年、小早川春平の懇請を受け、佛通禅師を勧請開山として安芸仏通寺を開く。応永15年(1408)、将軍足利義持に乞われて伏見の蔵光庵で会い、禅要を説く。応永16年8月25日、天寧寺にて示寂。世寿87。同年9月13日、仏徳大通禅師と勅諡された。荼毘の後、霊骨を分かちて天寧寺・佛通の両寺に塔を建つ。(禅文化研究所発行「禅文化」より)